東京の開業歯科医宅の次男が、
妹を殺害して遺体を細かく切断するという事件があった。

（中略）

個人の人格や尊厳を否定する言葉とはどのようなものであろうか。
考えられるのは、
「出自」、「国籍」、「身体的なこと」、「これまでの人生（キャリア）」、
「家族」、「学歴」、「職業」、「地位」、「収入」などだろうか。
そこに「貴賤」のにおいをこめて言われると、
それは個人の人格、尊厳を否定されたこととしてグサッと来るだろうと思う。

むろん、ほとんどすべての人間が、これらの幾つかについて
一度や二度は言われているはずであり、
殺害にまで至らないのが普通だ。
だが場合によっては一生忘れない言葉として、身に刻まれる。

私の知人で、既に九十代になる老婦人は、
夫を三十年も昔に亡くしている。

だが、彼女の口から私が幾度となく聞いているのは、
新婚間もない時のことだ。

「平凡な見合い結婚でしたが、新婚の頃に夫が言ったんですよ。
『僕の姉も妹も琴を習っていて、琴が弾ける。
お前は弾けるか？琴を弾いてみろ』って」

（中略）

夫の言葉は、彼女の尊厳を傷つける物だったのだ。
おそらく、娘にたしなみを習わせない親を否定され、
多忙な商家をガサツな職業と否定され、
夫の姉妹と比較されて貶められ、バカにされたと思ったのではないか。

（中略）

私が二十四、五歳の頃、
「牧子ちゃんにとてもいいお話があるのよ」
と、ある人がお見合いの話を持って来た。

相手は医者で、次男だった。
両親も医者で、長男も医者で、姉も妹も医者だった。
六人家族全員が医者ということになる。

見合い写真の男はヘナヘナしたタイプで、
私は「張り手一発で土俵の外に吹っ飛ぶ男」はすべてお断りなので、
すぐに断った。

が、実は私に写真を魅せる前に、母が既に断っていたのである。

母は、
「こんなところにお嫁にやる親がどこにいるのよ。
おさんどんと掃除に行くような物よ。
ごはんの時は一家六人が手術だ、患者だって話をして、
嫁は『お味噌汁、おかわりいかがですか？』なんてお盆を出すのよ。
医者じゃない自分が否定されてどんどんみじめになって、人生を棒に振るわ。
だからもう断ったわよ」
と言った。

私が、
「張り手一発で土俵の外みたいなタイプは困ります、
なんて言ったの？」
と笑うと、母も笑った。

「ううん、
『ご立派な医師一家なら、お嫁さんもお医者様の方がよろしいでしょう』
って断ったら、間に立った人がね、
『いいえ、先方様は、医師ではない並のレベルをご希望で、
しっかり家を守ってほしいんだそうです』って言ったわよ。
クワバラ、クワバラ。」

かくして、並のレベルの私は、
人格を否定される人生を回避できたのである。

（後略）

内館牧子「暖簾にひじ鉄」より